「世代を超えて伝達するトラウマ」のことを
「トランスジェネレーショナル・トラウマ」と呼びますが、
常識で考えると、
「一度も会ったことがない先祖や、
流産や中絶によって生まれる前に
この世を去った兄弟姉妹たちが
経験したトラウマが、
時間を超えて、空間も超えて、
子孫である私たちに影響を与える」
というのは、とても不思議で、
にわかには信じ難い現象です。
実際、なぜこうした現象が起きるのか、
その詳しい仕組みや本当の理由は
まだ明らかにはなっていませんが、
どうやらそうした現象が存在すること
だけは確かであり、
複数の分野の異なる学者らによって
同様の報告がなされています。
ところが、近年、
エピジェネティクスと呼ばれる
分子生物学(あるいは、遺伝学)の
研究分野の学者らによって、
その謎が解き明かされつつあります。
今回は、
エピジェネティクスからの
最新の研究報告をご紹介いたします。
【エピジェネティクスからの最新の研究報告】
遺伝子情報はDNAに書き込まれた4種類の塩基の配列で決定されます。
この塩基の配列が「経験」によって変化することはありません。
従って、そこから導き出される結論は、「経験の記憶は遺伝しない」というもの。
これが遺伝学の常識です。
だとしたら、なぜ、生まれつきの「恐怖症」のように合理的説明が困難な個体差や、初めて訪れた場所で感じる「デジャヴュ(既視感)」や出所不明の「孤独感」のように“前世(魂)の記憶”とでも呼ぶべきものが存在するのでしょうか?
エピジェネティクスは、DNA塩基配列では説明のつかない個体差について、「塩基配列以外にも、経験の記憶を細胞に刻み込む別の遺伝方法があるのではないか?」と考えて、そのメカニズムを解き明かす研究領域です。
もしかすると、生まれつきの「高所恐怖症」や「水恐怖症」の人は、ご先祖様に酷いトラウマ体験があったのかもしれません。
元旦に初日の出や富士山を拝むとなぜか特別な気持ちになるのも、あなたのルーツが日本人であることに特別な理由があるのかもしれません。
【トラウマ体験は子孫に遺伝する。ただし、マウスの実験】
米国ミシガン大学のヤツェク・デビエッチ博士は、マウスによる実験で、トラウマ体験が、親から子どもの世代へ遺伝という形で先天的に受け継がれる可能性があることを明らかにしました。
博士は、まず、メスのマウスに電気ショックを繰り返し与えると同時にペパーミントの香りをかがせることで、そのマウスがペパーミントの香りを嗅いだだけで恐怖反応を起こすように条件付け(アンカーリング)を行ないました。
その後、ペパーミントの香りを恐れるようになったメスのマウスとペパーミントの香りに恐怖条件付けされていないオスのマウスとの間に生まれてきた子マウスを、母マウスと完全に分離した状態でペパーミントの香りを嗅がせたところ、母マウスがいない状態でも子マウスが恐怖反応を示すことが分かりました。
さらに、ペパーミント恐怖症の母マウスの卵子をペパーミント恐怖症を持たない代理母マウスを使って出産させたところ、やはり生まれてきた子マウスはペパーミント恐怖症を示しました。
これは、母マウスのペパーミント恐怖症が、ペパーミントのトラウマ体験をまったく持たない、その事実も知らない子マウスに遺伝する可能性を示唆する実験結果です。
【戦争、大事故、身近な人の死など。トラウマ体験は子孫に受け継がれる】
スイス連邦工科大学の脳科学研究者、イザベル・マンスイ氏のチームは、マウスを使ってトラウマ体験が子孫の遺伝子及び行動に及ぼす影響について研究しています。
トラウマ体験によりウツ状態にあるマウスを水を張った容器に入れると、健康なマウスのように溺れないように泳ごうとはせず、すぐに体を硬直させ、泳ぐのを諦めてしまいます(強制水泳試験)。
マンスイ氏らは、生まれたばかりのマウスを14日間に渡り1日3時間ずつ母親から引き離し、トラウマとなるような苦痛を与えました。
こうしてストレスを与えたマウスの精子と健康なメスのマウスの卵子を人工授精させ、 生まれた次の世代のマウスに強制水泳試験を行ったところ、父親のマウスがそうだったのと同様に、子どものマウスは泳ぐのをすぐに諦めてしまいました。
こうした行動は、健康な雄の精子を使って人工授精させて生まれた子どもには見られませんでした。
これは、父マウスのトラウマが子マウスへと遺伝した可能性を示唆しています。
【ホロコースト・サバイバーのトラウマは子どもの遺伝子に伝達される】
第二次世界大戦時のホロコースト・サバイバー(大量虐殺からの生存者)たちを対象に行われた研究によって、ホロコーストを経験した親から生まれた子どもは後天的にPTSDの影響を受けることが明らかになりました。
マウントサイナイ医科大学PTSD部門のレイチェル・イェフダ博士は、ナチス・ドイツの強制収容所に抑留された経験のある人、拷問の経験がある人などホロコースト・サバイバーの32人のユダヤ人の男女を集めて、遺伝学研究を実施しました。
ホロコーストの生存者は、トラウマから回復するために分泌されるホルモンの一種であるコルチゾールが標準的な成人より少なく、ホロコーストでPTSDを発症した人はさらにコルチゾールのレベルが低い傾向にあることが確認されました。
なぜ生存者のコルチゾール分泌量が少ないのかは解明されていませんが、生存者はコルチゾールを分解する酵素の分泌レベルも低いことがわかりました。
酵素の活動量の減少により、肝臓と腎臓にグルコースや代謝燃料を最大限に蓄積できるようになり、コルチゾールの活動が活発化するため、長期的な餓えや脅威に適応した結果と考えられています。
この研究で、PTSDを持つ生存者の子どもは、母親と同様にコルチゾールのレベルが低いことがわかりましたが、両親とは異なり、コルチゾールを分解する酵素は同世代の標準よりも高いレベルにあることも分かりました。
コルチゾールを分解する酵素は、通常妊娠時には胎盤に高レベルで存在しますが、酵素分泌量が少ない母親の胎盤はコルチゾールを多く胎児に通してしまうため、コルチゾールから自身を保護するために胎児の酵素量が多くなったと考えられます。
これは親の受けた外的要因が子どもに遺伝していることを意味しています。
病気や飢餓の中を生き延びるためにストレスホルモンの状態を遺伝した子どもたちは、PTSDによる影響を受けやすい可能性があることが示唆されていますが、子どもたちが遺伝の影響を永久的に受けるかどうかは不明です。
もし、人間の場合にも、
先祖の経験したトラウマが
エピジェネティック変異を生じさせ、
それが子孫へと引き継がれて
行くのだとすれば、
あなたが幸せであることは、
単にあなたのためだけでなく、
あなたの子孫たちが
幸せに生きられるためにも
大切なことだと言えるでしょう。
心理セラピスト 棚田克彦